コロナ禍で大学一回生が考えていること
私は理系大学の一回生です。コロナ禍で実際に大学に通ったのは受験を含めて二回。
大学生になったという実感はあまりありませんが、受験勉強以外に使える時間が増えたということでは実感があります。
現在の大学生が考えている生身の声を綴っていきます。
内容は大きく分けて次の4つです。
交友関係
入学から3ヶ月経った今、大学でできた新しい友達は0人です。TwitterなどのSNSで同じ大学の人をかろうじて見つけることができ、そこから学科のLINEグループに入ることまではなんとか成功しました。しかし、だからと言って急に連絡する友達が増えるわけではありません。
現在の状況ではSNSに強い人、つまり極端に積極的な人のみ友達ができているのだと考えます。
この状況に悲観的か。
私はこの状況を悲観していません。というのも元々友達が多い方ではなかったし、ほとんど遊びに行ったことがなかったからです。ですから、言ってしまえば新しい友達ができようができまいが生活は変わらないのです。
しかし、私がこの状況に悲観的ではない理由は他にも二つあります。
一つが「家族と一緒にいること」、もう一つが「いづれ友達ができるだろうと思っていること」です。
まず、「家族がいること」。それは話す相手がいるということです。これは精神的に非常に安定します。私は大学では一人暮らしの予定でしたが、このようなご時世で大学がオンライン授業となり今もなお、実家に居ます。この期間、下宿先に一人で居続けるときっと精神的にしんどくなっていただろうと思います。現に、高校時代の友達の状況を聞いてみると、一人暮らしで外にも出れないし喋る人もいないしでかなり滅入っているようでした。いくらオンラインで話すことができても、身体的なコミュニケーションが取れないのは、ダメージが大きいようです。
このことから二つのことが考えられます。
一つが、今まで人間が追いついていなかった技術に、なんとか人間が追いつくということです。オンラインでの講義や会議などもまさにそうですよね。これを期に新しいコミュニケーション手段が広まるというわけです。
もう一つは、人間は身体的コミュニケーションを活用して生きてきた生き物だと実感するということです。私が実感する身体的なコミュニケーションというのは、実際に触れている感覚や同じ空間を共有している感覚や他者との間に感じる空気感などです。
映像を介しての対面はできるものの、やはり自分というものを言葉に託さなければならない場面が多くなりました。
「言葉では表現できない」という言葉に現れているように、言葉というのは離散的であるというのを私たちは自覚しています。ですから、自分を言葉に託すことの心許なさを感じ、そこから軋轢や孤独へと繋がることは十分に考えられます。私はこの機会に身体的なコミュニケーションがいかに私たちを形成していたかを実感していると共に、いかに言葉を蔑ろにしてきたかを実感させられました。
離散的な言葉をいかに自分というものに近づけるか。そういうことを考えるようになりました。まずは語彙力から。これについては後ほど「今、何ができるか」でも触れます。
さて、長くなりましたが、新しい友達がいないことへ私が悲観的でない理由の二つ目「いづれ友達ができるだろう思っている」ことについてです。
今はオンラインで完全に大学の人たちとは合わない状況です。しかし、いづれは会う日がくるだろうとどこかで楽観視しています。
しかし、その楽観的な私の考えに一石を投じる作品がありました。
劇団ノーミーツのZoom公演「門外不出モラトリアム」です。予告編のリンクを貼っておきます。
<あらすじ> みんなが家から出なくなって4年。入学からフルリモートのキャンパスライフを送った私は、実感の湧かない卒業を間近に控えていた。 もし、もう一度、家から出られなくなったあの日からやり直せたら、あのささやかな恋も、実ったのだろうか。あいつがいなくなることも、なかったのだろうか。 たとえバーチャルでも、これが私たちの青春。だから、何度でも繰り返す。何年この時代に生きることになっても。この部屋から、未来を変える。 収束しない事態と、収束する運命に逆らう物語。
私は残念ながらこの公演をみることは叶いませんでした。実際に大学生活そしてその後をフルリモートで過ごすことになることはないかもしれませんが、「もしそうなったら。」を考えることに非常に価値があると考えています。
自粛期間が始まった時から、「耐える期間」という認識は捨て去ろうと思っていました。つまり、この状況下でできることをやる。しかし、そうは言ってもなかなか難しいものです。そんな中、できることを見つける方法の一つが「もし、自粛期間がずっと続いたら。」を考えることだと思っています。私は公演を知らなければ考えることもなかったでしょう。新たな思考回路を生んでくれた劇団ノーミーツには感謝をしています。
「今できること」の一つが現在綴っているブログでもあるのです。これを含み、「今、何ができるか」で後述します。
学業
私の大学でオンライン講義が開始された日、説明されていたサイトでは視聴できずに私は焦っていました。そこで、Twitterに検索をかけるとなんとか見られるサイトを見つけることができました。このようにSNSを活用しないと、生き抜いていくことが難しい時代になっています。同時にこの「SNSを活用する」ということによって、人には得意・不得意があり、それぞれの得意を分け合って助け合っていくことで我々は成り立っているのだということも実感しています。また、フルリモートの講義になり、授業料に対して講義の質が見合っていないという意見がちらほら見られました。同感だと思うのと同時に、このような考えをもたらしてくれました。それは「知識は与えられて当然か」ということです。大学の教授は学生にわかりやすく丁寧に教える義務があるのだろうかということです。
私たちは無意識のうちに「知識は教えられて当然だ」と奢っていたのではないでしょうか。学生とは字の如く「学ぶ」者です。講義の質があーだこーだという前に、この自覚を今一度強く戒めるのが先ではないかということを実感したわけです。
私は現在、この「学生」のあり方について考えており、自分のなすべきこと・できることを考え直している最中です。これは次の「思考回路との戦い」にもつながります。
思考回路との戦い
私たち大学生は小中高12年間の教育を受けて、さらに受験というものを通っています。大学生になった今、「受験」の思考つまり答えは必ず存在し一つであるという思考からの脱却という戦いの始まりであると考えています。
答えのない問いに立ち向かっていかなければならない。というのは言葉では何度も聞いてきたことですがなかなか実感することは難しいのです。私自身戦っている真っ最中です。
しかし、学生のあり方を考えているとその違いの片鱗が見えてきたように思えます。
受験思考では先生や教科書の行っていることは全て正しく、それをいかに覚えるかというゲームでした。ですから、わかっていることを教えられるわけです。そして、それで事足りるわけです。事足りると言いますか、私のような凡人はそれを覚えるだけで、必死でその先を考える余裕などなかったのです。
しかし、大学生は「何がわかっていないか」「何ができないか」を考えるために「どこまでわかっているか」「どこまでできるか」を学ぶのです。この姿勢を本で読んだときはまさに晴天の霹靂でした。「わかってはいるけれど、、、」というモヤモヤを吹き飛ばしてくれたように思います。
さて、私の大学の講義では『「何がわかっていないか」「何ができないか」を考えるために「どこまでわかっているか」「どこまでできるか」を前提知識として共有するよ』という言葉は一切ありませんでした。これを不親切と取るべきか、そのくらい大学生として常識と取るべきか。おそらく後者なのでしょう。
つまり学ぶというのはこのことだったのです。学ぶ姿勢というものを極端に持ち合わせていない私は、そこへ挑んでいかなければなりません。
そして、大学生は「大学は最後の教育機関である」ということに強く自覚的であるべきだと考えます。
教わる「生徒」から脱却し、学ぶ「学生」へ移行するための最後の4 年間なのです。
オンライン講義によって、より講義への不満が高まったことで逆説的に「自ら学ぶ」とうことを考えルことができたように感じますし、考えた人も多いのではないかと思っています。
今、何ができるか(土地・自然・言葉・新たな挑戦)
今できることは何か。と考えるほどになんでもできるように感じます。とはいえ、友達と勉強したり考えていることを共有したり新たな物づくりに挑戦したりというのが難しくなっているなと感じます。これは一回生だからこその悩みなのかもしれません。
さて、いまだ実家にいる私ができること・したいことはないかと考えていると決定的なものがありました。それは、今まで育ってきたと土地を知るということです。
地形や地名の由来。土地の歴史 などです。
これからそのようなことを勉強していこうと考えています。そして、どうにかこのブログに還元できないかとも考えています。
それは自然に対しても同じことが言えます。
受験という柵から解放された今、心の余裕によって色を持った自然を体感し勉強していきたいとも考えています。受験には大変苦しみました。最後まで受験を乗りこなすことができなかったのです。しかし、そうやって心の余裕を失い「見えなくなった」からこそ、解放された今「見えるようになった」のです。ずっと見えていたら気づかなかったかもしれない美しいもの・興味のあることに気づくことができたのです。
そして、先述した通り言葉をいかに自分に近づけるか。という戦いも今できることの一つだと考えています。言葉を学び、また体感することによって言葉を引き出す機会をふやす。そうやって、言葉と自分の一致性を高める努力をしていきたいものです。
ここで私の心に残っている言葉を大野晋氏の『日本語練習帳』から引用します。語彙に関する文章です。
生活していく上で間にあうという数でいえば、三〇〇〇語もあれば間に合う。(中略)では、三〇〇〇語知っていればいいか。言語生活がよく営めるには、三〇〇〇語では間に合わない。三万から五万の単語の約半分は、実のところは新聞でも年に一度しか使われない。一生に一度しか出会わないような単語が、ここというときに適切に使えるかどうか。使えて初めて、よい言語生活が営めるのです。そこが大事です。語彙を七万も一〇万も持っていたって使用度数1、あるいは一生で一度も使わないかもしれない。だからいらないのではなくて、その一回のための単語を蓄えていること
語彙が貧弱な私はこの言葉を胸に勉強に励みたいです。
そして、この一人の期間は自分のためだけに時間を使うことができるので、このブログ然り新しいことに挑戦する絶好の機会です。他にもプログラミングや3Dモデリング、電子工作やカメラなどにも挑戦していきたいですが、独学の厳しさにも直面しています。
同じことに取り組む仲間も欲しいものです。
まとめ
コロナ禍によって未曾有の出来事に直面したり、考えもしなかった事象・今まで表沙汰にならなかった意見が露出してきました。しかし、そのことによって今まで当たり前にやり過ごしてきたことを考えるきっかけになっていることも事実です。
我々学生はこれからこの社会・この世界で生きていく世代です。この考え直す機会にしっかり考えるのは使命だと思っているので、未熟な私でも足掻き続けようと思います。
まひる🌱